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ジャパニーズウイスキー

ジャパニーズウイスキー

ジャパニーズウイスキーとは

現在、ジャパニーズウイスキーはスコッチウイスキー、アイリッシュウイスキー、アメリカンウイスキー、カナディアンウイスキーに加えて、世界の5大ウイスキーと呼ばれるまでに成長をしています。

歴史は他のウイスキー大国に比べると短いのですが、凝り性で食べ物には妥協のない日本人らしく繊細な味わいは海外で高い評価を集めています。

スコットランドに留学してスコッチウイスキーの酒造りを学んだ竹鶴政孝が「日本のウイスキーの父」とも言える役割を果たしたため、日本におけるウイスキーの英語表記はWhiskyというスコットランド風の表記が用いられているほどです(アイリッシュウイスキーはWhiskeyと表記します)。

しかしながら、日本におけるウイスキーの定義は「酒税法上のウイスキーの定義を満たす蒸留酒」となっていますが、この酒税法の定義は他国に比べ非常に緩やかで、ともすれば到底ウイスキーとは呼べないような低品質な酒であってもウイスキーと名乗っている現状があります。

10%以上穀物由来のウイスキー原酒を使っていればウイスキーの要件を満たすことから、90%まで醸造アルコール、ウォッカ、全く熟成されていないベビーモルト、ベビーグレーンなどのスピリッツの使用が可能で、最低熟成年数も規則がありません。

いわゆるザル法になっていて、特に低価格帯の商品で顕著であって、せっかく評価が高まった日本のウイスキーもその信頼を失いかねない状況にありました。

ジャパニーズウイスキー 日本洋酒酒造組合の自主基準

そこで、民間団体である日本洋酒酒造組合は「ジャパニーズウイスキー」の定義を明確化するため、2021年2月12日に自主基準である「ウイスキーにおけるジャパニーズウイスキーの表示に関する基準」を制定し、同年4月以降、日本国内でウイスキー製造免許を持つ82社はこの基準を遵守することとなりました。

ジャパニーズウイスキーの品質基準

  • 原材料には麦芽、穀類、日本国内で採水された水のみを使用すること。麦芽は必ず使用すること
  • 糖化、発酵、蒸留は日本国内の蒸留所で行うこと。蒸留留出時のアルコール分は95%未満であること。
  • 貯蔵にあたっては内容量700リットル以下の木樽に詰め、日本国内で3年以上貯蔵すること。
  • カラメルの使用を認める。

ジャパニーズウイスキーの表示などの基準

  • 表記上は「ジャパニーズ」と「ウイスキー」の文字を統一的且つ一体的に表示し文字の間を別の用語で分断してはならない。
  • 「日本ウイスキー」「ジャパンウイスキー」等の同義語や外国語への翻訳時にも上記の品質基準を満たしていなければならない。
  • 日本を想起させる人名・都市名や山岳名等の地名・日本国の国旗及び元号等も上記の品質基準を満たしていないものに使用してはいけない(品質基準を満たしていないことを明示している場合を除く)

ジャパニーズウイスキーの自主基準の影響

日本のウイスキーの多くは海外原酒を輸入して使っているケースが多く、そのため多くの有名ブランドでもジャパニーズウイスキーの表記を得ることが出来ないという事態が発生した。

日本のファンは、すべて国内産で賄っているということに一種のステイタスを覚えるようになっていったが、それが逆に「響」「山崎」「白州」「竹鶴」「余市」「宮城峡」といった人気銘柄がますます人気が集中し、理不尽なほどのプレミアム価格がついてしまう事態となった。

また、当時の原酒不足も深刻で、海外原酒を使用していることを最初から明示した「ニッカセッション」や「サントリーAo」などのブレンドも登場しています。

また、それまではオールドファン向けの銘柄として、おおくのウイスキーファンの目に留まることのなかった、サントリーオールド、スペシャルリザーブ、ローヤルが意外にもジャパニーズウイスキーの表記が可能(すべて国内産)であることから見直されるという流れも出来ています。

日本のウイスキーの歴史

ウイスキーが初めて日本に伝えられたのは、幕末の1853年にペリー提督が来航した際にスコッチとアメリカンウイスキーが持ち込まれたと記録に残されています。翌年の2度目の来航時に徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上されたと言われています。

その後、1859年に開港した横浜や長崎などの外国人居留地に暮らす外国人のために、ウイスキーは輸入されてきましたが、次第に日本人の間にも少しずつ浸透してきました。

1873年に岩倉具視が欧米使節団を率いて帰国した際に日本にオールドパーをもたらしたことが知られています。岩倉は、オールドパーを西洋文化の象徴として明治天皇に献上され、それ以来、上流階級の間でオールドパーは舶来の高級酒として知られるようになります。

この流れは長く続き、昭和になっても吉田茂首相をはじめ、歴代の宰相たちに愛飲されて来ました。

1907年に摂津酒造がアルコール製造を開始。1911年に自社製アルコールを使ったウイスキーづくりを始めています。摂津酒造は本格的なウイスキーづくりを実現させるため、竹鶴政孝を1918年から20年にかけてスコットランドに留学をさせます。

竹鶴政孝の偉業

竹鶴政孝は広島県の竹原市で、酒造りを行っていた家(現在の竹鶴酒造)に生まれます。父の敬次郎は竹原で酒造りの基礎を築き、現在では灘・伏見と並ぶ日本の三大銘醸地として知られるようになります。

政孝は大阪高等工業学校で醸造を学び、洋酒に興味を持つようになって、摂津酒造常務であった岩井喜一郎を頼り、摂津酒造に入社。1918年に単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学び、ロングモーン蒸留所で実習を行い、後にヘーゼルバーン蒸留所で実習を行っています。

竹鶴はグラスゴー大学で知り合ったリタと1920年に結婚。同年11月に日本に帰国しました。研究成果を竹鶴ノートにまとめて岩井に提出しましたが、摂津酒造は第一次大戦後の戦後恐慌によってウイスキー製造計画は頓挫。大阪の桃山中学で化学を教える教師となります。

1923年、壽屋(現サントリー)が国内で本格ウイスキーの製造を企画し、社長の鳥井信治郎が竹鶴を迎えいれます。

当初、竹鶴はスコットランドに気候風土が似た北海道につくるべきだと考えていたが、消費地から遠く輸送費がかかる上に、客に工場見学をさせる都合があるため、大阪近郊の山崎を候補地に推薦。工場および製造設備は竹鶴が設計し、特にポットスチルは何度も製造業者と打ち合わせて作ったそうです。

1924年11月11日に山崎蒸留所が竣工し、竹鶴は初代所長となります。ウイスキーの生産は熟成のための時間が掛かる上に当時の税法では貯蔵中に分量が減る(いわゆる天使の取り分)ため、ウイスキーは非常に不利であり、出資者を納得させるために不満足なものを出荷せざるを得ませんでした。

1929年に竹鶴が製造した「サントリー白札」が発売されますが、模造ウイスキーに慣れた当時の日本人には受け入れられず、鳥井は次第に竹鶴があまりにスコッチにこだわりすぎて日本人に受けるものをつくる気がないのに納得できず、壽屋は横浜の日英醸造のビール工場を買収してその工場長も竹鶴が兼任することとなります。さらに1933年には、その鶴見工場を工場長である竹鶴に事前連絡無しに売却。竹鶴は壽屋に不信感を持つようになります。

1934年に鳥井の長男の鳥井吉太郎に一通りのことを教え終えたことと当初の約束であった10年が経過したことから退職。

北海道の余市町で現在の余市蒸溜所を作ってウイスキー製造を開始することを決意。大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任。筆頭株主は加賀証券の社長で、加賀は他にも出資者を集め、竹鶴を支援することになります。

ウイスキーは出荷まで数年かかるために、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造をするという方針で、そのため社名も大日本果汁であったそうです。

1940年に余市で製造した最初のウイスキーを発売。社名の「日」と「果」からニッカウイスキーと命名。しかし、直後にウイスキーは統制品になってしまい、ニッカの工場は海軍監督上場となり、終戦まで配給用のウイスキーを製造することになります。

1945年。終戦とともに他社が相次いで低品質のウイスキーを発売する中、竹鶴は3級品はつくらないと言っていましたが、筆頭株主だった加賀らに説得されて、1950年に安価な三級ウイスキーを作ります。

1961年にはリタ夫人が逝去し、1969年には宮城県に宮城峡蒸留所を竣工。この年に勲三等瑞宝章を受章し、1970年にはニッカウイスキー代表取締役会長に就任。

1979年に東京にて死去します。

政孝は多くの逸話を残した人物ですが、自分が関わった山崎蒸留所もニッカウイスキーも、今では日本のウイスキー業界に確固たる地位を築いていて、その功績から日本のウイスキーの父と呼ばれています。

2014年には政孝とリタをモデルにした、NHKの連続テレビ小説のマッサンが放映されて、大きな話題となり、当時は世界的にウイスキーブームが起きつつあるという状況の中で、業績が厳しかったニッカの復活に一役買い、角ハイボール人気とともに日本のウイスキーブームの火付け役になっています。

日本のウイスキーメーカーについて

日本のウイスキーの生産が始まったのは明治維新直後の1870年頃と言われていますが、本当にウイスキーらしいウイスキーが始まったのは、1924年の山崎蒸留所の竣工から、1929年のサントリー白札発売ぐらいと捉えるべきでしょう。

現在の日本の国産ウイスキーマーケットは、大手であるサントリー、ニッカ、キリンの3社でシェア90%を占めていて、残りを小規模な蒸留所の地ウイスキーで分け合っているという状況でした。

しかし、ベンチャーウイスキーが秩父市に秩父蒸留所を建設し、2008年から生産を始めたことは、日本のウイスキーの歴史の大きなエピソードになっています。元々、秩父蒸留所(ベンチャーウイスキー)のオーナーは東亜酒造という羽生市の酒造会社の社長の息子であり、東亜酒造が経営難から買収され、ウイスキー事業は閉鎖。廃棄予定であった羽生の原酒を買い取って、笹の川酒造に預け、ベンチャーウイスキーを立ち上げてから、その原酒を使ってイチローズモルトの製造販売を開始。

さらに自前の秩父蒸留所の原酒も使い、ラインナップの幅を広げ、大成功をおさめました。

折からの世界的なウイスキーブームに乗って、イチローズモルトの成功を見た多くの人々が日本各地に小規模蒸留所を次々に建設。

今では、かなり丁寧に動向を追いかけているファンで無ければ、その全容を理解することすら出来ません。その中にはかつてウイスキー製造を行っていたものの廃業していた蒸留所の復活(羽生蒸溜所、軽井沢ウイスキー蒸溜所)、日本酒や焼酎の酒蔵が新規事業として始めたもの(ニセコ蒸留所、岡山蒸留所、嘉之助蒸留所)など多士済済になっています。

サントリー

サントリーは総合酒類メーカーで、ウイスキーだけではなくビール、ワインなど多くの種類のお酒を作っていますが、ウイスキーに限っても日本で最大のメーカーになります。国内シェアは41.2%(2022年実績)で、全世界のジャパニーズウイスキー市場におけるシェアに至っては数量ベースで90%以上がサントリーになります。そのうち角瓶が約65%のシェアを占めています。

2024年頃には、韓国でハイボール人気が爆発し、角瓶にかなりのプレミアムがついたこともあります。

サントリーについて詳しくは>>

ニッカ

ニッカは1934年設立され、2001年にはアサヒビールと営業統合しています。現在は生産はニッカ、販売はアサヒビールが担当しており、アサヒグループホールディングスの完全子会社になっています。

子会社になったとは言っても、日本のウイスキーの父と言われる竹鶴政孝の理想を受け継いでいて、その個性を失っていません。

サントリーと並ぶ、国産ウイスキーメーカーの2大巨頭で、国内シェア約34.2%(2022年実績)を確保しています。

ニッカについて詳しくは>>

キリン

キリンホールディングスでウイスキー生産を担当しているのはキリンディスティラリーになります。

キリンディスティラリーは、サントリー、ニッカに続く、国内ウイスキーブランドの3つ目の存在で、上記2社とは違う方向性でウイスキー造りをしています。

元々は1972年にキリンビール、シーグラム、シーバス・ブラザーズの3社合弁事業としてキリン・シーグラム社を設立し、翌年には富士御殿場蒸溜所が完成しウイスキー製造を開始します。

その後、2002年に合弁事業を解消してキリンビール100%出資子会社となり、社名もキリンディスティラリーとなります。

その製品は、富士御殿場蒸溜所で作られる原酒をメインに、海外原酒も使いながら、独自の味わいを追求しています。

キリンディスティラリーについて>>

小規模蒸留所

現在、日本におけるウイスキー蒸留所は118箇所にのぼるそうです。その中には大手3社の蒸留所もありますが、近年雨後の筍のように小資本で運営されている小規模蒸留所が生まれており、この数になっています。

とは言え、ウイスキーという製品は資本の回転率が悪い(製品として出荷して代金を回収するまでに数年もかかる)ため、資金繰りが大変で経営が難しい部類に入ります。スコッチウイスキーの歴史をみても、現在まで続く一流の蒸留所であっても、その歴史の中では幾度もオーナーが変わったり、活動休止期間があったりと、世間のお酒の嗜好の波がもろに影響しています。

現在、かなり長期にわたって世界的なウイスキーブームが続いていて、まだ立ち上がったばかりの蒸留所の若いボトルがけっこう高額で取引されていますが、このブームが陰ると、バタバタと潰れるのでは……と心配になります。

とは言え、ウイスキーファンとしては個性豊かな小規模蒸留所がたくさん生まれて活動している様子は心躍るものがあり、そのすべてを網羅的に扱うことは出来ませんが、主だったものをご紹介していきます。

日本の小規模蒸留所について>>

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